日本の教育哲学者で、林竹二(1906-1985)という人がいる。彼は教育を学問としてとらえるだけでなく、教育者として、本当の「子供が学ぶ」ということの意味を考えていた。彼の残した言葉には、授業において子供と追求関係をどのようにつくっていくか、ということが述べられている。今回はそれが書かれた記事を紹介したいと思う。

リンクより引用
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 林氏から学んだ最初は、授業とは何かである。林氏は授業を「子どもたちだけでは到達できない高みにまで、しかも子どもが自分の手や足を使ってよじ登っていくのを助ける仕事」(『授業の中の子どもたち』日本放送出版協会)だと述べている。
 つまり、授業は知識を授けることではなく、子どもが何かを学び、学ぶのを助けてやることだと言う。
 子どもが主体となって、自分の手で自分の中から取り出して、自分のものにしていくことが授業だと主張している。
 
中略

 次に林氏は、授業を問題追求の仕事と考えている。問題追求とは、一つの課題を教師と子どもが一緒になって追求していく事である。
 追求のある授業の構造を分析すると、教師が問いを投げかける。そして子どもの発言の内容を識別し位置づけ、思考の対象を発展させる。そういう作業を繰り返し、本質的なものへと意識化させていく。
 私の授業はそういうものではなく、一問一答式で発展もなければ本質へ迫るものでもなかった。ただ、知識を教えるだけであった。
 さらに林氏は、正しい解答が用意されていて、それを自分も言い当てたということで終わってしまう授業では、子どもは喜びにふくらむことはないと述べている。
 一つの到達のあとに、さらにどこまでも続く追求の過程があり、一つの事の終わりにいつでも新しい出発がくると言う。
 この追求そのものが、子どもにも純粋な喜びとなり、一つの山が越えられた時に子どもの目が輝くのである。
 しかも追求はそこで終わらない。登り着いた高みは、再び乗り越えられなければならない。授業はこの繰り返しだと主張している。

中略

■追求のある授業の成立条件
一つの問題をみんなで追求する授業は、ほおっておいては成立しない。林氏はその条件を大きく6つに分けて説明している。

①心を開く時
第一は子どもが心を開く時だと言う。こちらと対等の関係になった時、授業は成立する。なぜなら、対等になった時にはじめて仲間になれる。仲間とは、相手の気持ちを類推し、感じ合い、響きあうことが出来る間柄だと言う。私の授業では子どもの心は開かず、正しい答えだけを強要しおどかしていた。
 
心を開いている状態は「こういう笑いが、いい授業には、いっぱい出ます。笑いやささやきやうなずきが出るのは、よい授業の一つの大きな条件ですね」(斎藤喜博編集『開く』NO.9 明治図書)こういう自由な、心を開く子どもの活動があって、はじめて追求のある授業は成立する。


②教えたいものが子どもの追求に転化する時
  心を開けばそれでいいかというとそうではない。林氏は「教師の持っている教えたいことが、子ども自身の課題として、成立し行かなければならない。そして、子ども自身の追求が、そこからはじまっていかなければならない。[略]そういう仕事ができるとき、はじめて、教師の持っているなにか教えたいことが子どもにとって、自分が追求したり、どこまでも追いかけずにすまないものに、転化していくわけです」(斎藤喜博編集『開く』NO.7 明治図書)と述べている。


③子どもが主体的である時
 心を開く時や教えたいものが子どもの追求に転化する時などの条件を保障するのは、子どもの主体性である。
 子どもの自主的な活動がなければ、教えたいものは、子どもの追求に転化出来ない。「子どもが授業の中で感じる楽しみの核心をなすものは、自分が自由な追求の主体になることができたという実感」であり、「外からの強制でない、自然に深く授業に入り込んでいったということ」(斎藤喜博編集『開く』NO.9 明治図書)であると言う。

④吟味のある時
 林氏は授業の核心は発言ではなく、その吟味であると言う。
 吟味とは、「何かを教えることではない。問題をつきつけて、子ども自身にこれでいいのかということを考えさせる作業」であると言う。
 子どもが今まで分かったと思っていることが分かっていなかったことに気づかせることである。
 これでは駄目だと自分で分かる時に、子どもは否定を通して自分を変えていくことが出来る。林氏は否定ということを強調する。

⑤自己との対決がある時
 追求のある授業を成立させるには、吟味が必要である。その吟味を保障するのが、自己との対決である。
 林氏は「子どもの日常的な思考の次元、あるいは借り物の知識にたよって議論させ、その司会者に教師がおさまっている。それは、授業ではない。そこには、学習はない。きびしい自己との対決がないところに、学ぶということは成立しない」(斎藤喜博編集『開く』NO.17 明治図書)と述べている。

⑥イメ-ジのある時
 最後に林氏が強調するのは、イメ-ジの問題である。
 教師の教えたいものが、子どもの追求に転化できるのも、子どもが主体的になるのも、吟味が可能になるのも、自己との対決が起こるのも、すべて教材に対する教師のイメ-ジが明確になって出来るのだと言う。
 「ゆたかなイメ-ジとは、具体の場でどんなにでも自己を展開したり、貫徹したりする力をもっているものということです」(斎藤喜博編集『開く』NO.10 明治図書)
 「その種のイメ-ジが、実は授業の中で斎藤先生をつき動かしている。それが飽くことなき追求の一つの根源的な動機となっているのではないか。それがないと、戦う力がでてこない。きびしい吟味への動機がない」(『教授学研究5』国土社)

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